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本書は、河川上流中流の土砂流下と堆積に関わる様ざまな状況を観察、考察して来た成果を記述しています。また、それらの土砂が流れ着く先の海岸の問題についても言及しています。
なぜ、上流の水の流れは透明なのでしょうか。どうして「淵」が出来るのでしょうか。この文章を読んでいる皆さんの中にも、それらの疑問をお持ちになった人がいる事でしょう。或いは、そんな当たり前の事柄をいちいち考えた事は無い、と言う人もいるかもしれません。
元々、この研究は、「淵」がどうして出来るのかと言う、好奇心から始まりました。私がその疑問を抱いた時にも、「淵」の形成についての研究は幾つかあったのですが、私は当時のそれらに納得出来ませんでした。それで、私は、個人的にそれを解明しよう考えたのです。しかし、その研究は容易ではありませんでした。
「淵」の問題を解決するためには、それが出来る場所の問題だけでなく上流中流で発生している土砂流下と堆積に関わる現象の全体を明らかにしなければならなかったのです。「淵」は、単純な現象ではなく幾つもの自然の事象が重なり合って発生している現象でした。ですから、上流中流で発生している幾つもの個別の事象を明らかにした後に、「淵」が成立する仕組みを理解する必要があり、それには多くの時間が必要でした。
そして、「淵」の問題が解けた頃には、「なぜ、上流の水の流れは透明なのか」と言う疑問についても説明出来るようになりました。この問題も幾つもの自然の事象が重なり合って発生している現象でした。さらに、上流ほど流れが急激であるのに長い年月の間その傾斜が維持され続けている理由や、上流ほど石や岩の大きさが大きい現象についても解明する事が出来ました。
今まで、上流や中流では幾多の河川工事が行われてきましたが、それらのほとんどが、誤り、間違いであった事も明らかになったのです。従来の学問では河川を流下する水については多くの研究があり成果を挙げて来ましたが、水によって河川を流下し堆積する様々な大きさの土砂についての研究は余りにも少なかったのです。言い換えると、「上流中流の土砂流下と堆積の規則性」はほとんど顧みられる事がなかったのです。
ですから、これまでの工事は自然の摂理を無視したものとなり、工事をするほど不都合が生じ、また新たな工事の必要性が発生していました。理論的な根拠が不明瞭なままに多くの工事が施工され、工事量が多くなるほど、不都合は拡大して累積しました。自然が持っている治水力は失われ、本来の自然環境も失われ、多くの生物にとって生存の前提であった環境も喪失しています。
なんだか小難しい問題について記述していると思われたかも知れません。でも、そんな事はありません。なにしろ、研究と記述の対象は、日本中どこにでもある上流と中流の様々な様相や現象に過ぎないのです。日本に居住する限り、誰でもが観察出来る事象や現象について言及しているに過ぎません。
読者の皆さんが上流中流での種々の現象に抱いた疑問の多くについて、その答えを明らかに出来ていると考えています。本書の記述内容を確かめるのは容易です。身近にある実際の河川を観察して、本書の記述内容と比較すれば良いのですから。さらに、最近では、河川を巡る動画も多く公開されていますから、それらを参考にして頂く事も出来ます。
是非、本書をお読み頂き、現在の河川の状況とあるべき姿、或いは過去の自然あふれる時代の頃を思い起こして頂きたいのです。
日本の河川の特徴
日本国は、山地が多い大小の島々で成り立ち、平野と呼ばれる広くて平坦な土地は多くはありません。年間を通しての降雨量も多いので至る所に河川があり、それらは、大陸の河川などに比べてその長さが短く、急流でもあることが知られています。また、増水時と渇水時との水量の変動幅も大きい事も特徴になっています。
数多くある河川は山地の奥深くにまで及んで山々を侵食しています。山地にある河川は石や岩が多く流れが早いことが普通で、そのような河川は一般的に渓流あるいは谷川と呼ばれています。ですから、山地が多く降雨量も多い日本には至る所に渓流があります。
渓流では、山々や岸辺の様々な草々や木々が四季の変化に伴ってその様相を変え、水辺の多くの石や岩の様相も時の経過に応じて変化しています。そして、それらの風景の中心に透明で清らかな水が流れています。山地にも昔から人々が住み生活を営んで来たので、渓流の近くに集落を見る事も多く、それらの中には古くからの風習や芸能を今に伝えている集落も少なくありません。渓流の近くに温泉地があることも多く、人々はそれらの温泉を訪れ周囲の景観や四季の風情を楽しんでいます。温泉地以外の場所でも渓谷や山々の眺めを楽しみ、水遊びやキャンプやバーベキューで上流や中流を訪れる事も多くあります。また、下流から上流に至る多くの場所では様々な種類の魚を釣ることも盛んです。
これら河川と人々との関わりの多さと多様性は日本の文化の特徴の一つであるのかも知れません。
本書の内容
本書では、石や岩が多い河川上流中流での土砂流下と堆積に関わる現象に規則性がある事を説明しています。 河川上流や中流で見る多くの石や岩や土砂は、一見したところ全く不規則に散乱しているかのようですが、そうではありません。土石流や土砂崩れの場合などを例外にして、水流によって移動する様々な大きさの石や岩やその他の土砂には、その流下と堆積に関わる規則性があり、上流や中流の土砂はそれらの規則性に依って移動し堆積しています。
それらは、法則というほど大げさなものでは無く、常に確実に発生している現象ではありません。そうかと言って、傾向と呼ぶには明瞭過ぎる現象だと思うのです。そこで私は、それらの現象の在り方を規則性と呼ぶことにしました。本書の前半では、それら自然の摂理とも言うべき規則性を明らかにしていきます。後半では、それらの応用として、近年各地で行われている河川工事について考察しています。
河川上流中流の土砂の流下と堆積の仕方に規則性があるとの考え方は、今まで無かったのでしょう。流れの中や河川敷にある様々な土砂の時々の様相を断片的に表現し、また記述する事があっても、それら個々の現象を関連付け体系的に考える事はほとんど無かったと思います。
本書で言及している土砂流下と堆積に関する実際の様々な現象の多くは、多くの人々が以前から承知していたことに過ぎません。それらは、上流や中流で実際に確かめることが出来る事柄でもあるのです。本書は、それらの現象を関連付けて規則性として新たな観点から説明しています。石や岩が多くある河川の上流は、渓流或いは谷川と呼ばれますが、石や岩が多くても中流のそれらは清流と呼ばれる事もあります。言い換えると、本書は渓流と清流の土砂の流下と堆積の規則性を説明するものです。
本書は、第一章で、規則性と考えられる基本的な幾つかの現象について説明しています。第二章では私がこれらの問題を考えるきっかけとなった「淵」について記述し、さらに、第三章では規則性についてより深く言及し、新たな考え方を提案しています。続く第四、第五、第六、第七章では、上流中流に設置された構造物について土砂流下と堆積の規則性の立場から説明し、また、上流中流の土砂が行き着く海岸の砂浜についても説明しています。最後の第八章では、現在の河川の状況が治水に困難な状況を生じさせ、河川やその周囲に生きる生物にも困難な状況をもたらしている事と、それらの間違えた状況を改善する方法について提案しています。
本書が対象とする河川
河川はその流れの場所によって、上流、中流、下流と区分されて、河川の水源に近い流域を上流、海に近い流域を下流、それらの中間流域を中流と呼ぶことが普通です。この区分は、地図上に記載された場所を表わしているので、地図的区分と考えることが出来ます。
それに対して、本書で多く使用している上流、中流の言葉は、その意味する所から言って地形的区分と言うべきものです。
この区分は、流れの形状を基準にしています。この区分では、石や岩が多く、幾つも段差があり、その傾斜が大きく、流れが速い区域を上流と呼びます。簡単に言えば、波立ちや白い泡立ちが多い流れを上流と呼びます。平野部を流れる下流には石や岩が無く、段差も無く傾斜も少ないので、波立ちや白い泡立ちはほとんどありません。平野部と山地の中間区域を流れる中流部には石や岩もありますが、それらは上流よりも小さく、段差も少しあり、波立ちや白い泡立ちを所々で見ることが出来ます。波立ちや白い泡立ちは、上流に近い場所ほど多く下流に近づくほど少なくなります。
本書では、その記述のほとんどを、上述の地形的区分によって、河川の流れを上流、中流、下流として区分しています。一般的には、河川の流れを地図的区分によって上流、中流、下流と呼ぶことが普通ですが、その区分のままに本書を読み進めると、解り難くなったり誤解が生じたりする事も考えられます。実際、地図的区分と地形的区分とがほとんど一致している河川が多くあります。でも、それが一致しない河川も少なくありません。
例えば、本州中部の山岳地帯を水源として太平洋や日本海に注いでいる河川の幾つかは、石や岩の多い中流域の様相のままに海に流れ込んでいます。また、それらの地域でなくても、山地がそのまま海岸に落ち込んでいる地域の河川でも同様の状況を観察することが出来るでしょう。
本州中部の河川の一つである「富士川」では、それら地形の変化の有様は単純ではありません。富士川の上流では、周囲の幾つもの山岳から大小の渓流と清流が甲府盆地へと流れ込み、それらは次第に集合して中流ないし下流の様相をもって盆地の南端から南に流れ出ています。甲府盆地以南では東西の山々から幾つもの渓流が再び流れ込んで来るので、富士川は次第に石や岩の多い上流や中流の様相となり、その様相のまま駿河湾に注いでいるのです。甲府盆地から流れ下る富士川の例だけでなく、日本各地にある盆地の場合でも同様の河川があります。例えば、熊本県の球磨川もその一つでしょう。
つまり、本書で記述する上流や中流の区分は、地図上で判断できる位置的意味ではなく、その流れの形状を基準にしたものです。また、その区分は、上流中流には下流の土や砂とは異なった流下と堆積の様相がある事を明確にする意図を持った区分でもあるのです。このことは本書を読み進め理解して頂くために重要で基本的な事柄です。
本書で記述している用語について
本書は、渓流と清流に関わる個人的疑問を解明するために行ってきた観察と思索の成果を文章に記述したものです。学術的には「河川工学」と呼ばれる分野に属する事柄だと考えていますが、現在の「河川工学」には本書に記述した内容と同じような考え方はほとんど無いようです。また、河川によって形成されている小さな地形について考察しているので、「地理学」であると考える事も出来ます。でも、河川上流中流で生じている小規模な或いは微細な地形について言及することは、今までの「地理学」においても多くは無かったようです。つまり、本書は、従来の学問ではほとんど未開拓であった内容を持っていると考えています。
このような事情から、本書ではその記述における用語の使用方法が従来の「河川工学」や「地理学」の場合とは異なっていることが多くあります。さらに、数値を記述することが多い一般的な科学的論述の場合とも異なっている事もあります。前の項目で説明した上流、中流、下流の区分方法も、その例だと言えるかもしれません。ですから、もしかすると本書での用語の使用方法は、学問的厳密さを欠いていると言われるかもしれません。でも、一般的な学述表現ではないかもしれませんが、より多くの皆さんには分かり易い表現になっているつもりです。
本書の副題「河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える」にある「土砂」と言う言葉の使用方法は、明らかに厳密さを欠いたものです。辞書では「土砂」は、「土と砂」と説明されています。しかし、本書の題名にある「土砂」の中には石や岩が含まれている事を多くの人が自然に了解するのではないでしょうか。「土砂」と言う言葉は日常頻繁に使用される言葉ではありませんが、ニュース等では「土砂崩れ」と言う言葉が度々使用され、その映像を見る機会も多いのです。それらの映像で見る「土砂崩れ」では、その場所にあるのは「土と砂」だけではありません。「石」や「岩」も多く散乱しているのが普通ですから、著者は、石や岩をも含んだ概念として「土砂」と言う記述をしても必ずしも間違いではないと判断しました。
但し、勘違いが生じないように、本文中では土や砂を表わして「小さな土砂」また、石や岩を「大きな土砂」と記述している事もあります。
本文中で多く使用している「石や岩」についても似たような事情があります。最初、副題の始めに「石や岩の多い」と付け加える事を考えていたのですが、それは取りやめました。その記述が冗長すぎるだけでなく同じ意味内容が重なっていると考えたのです。
辞書によると、「石」は「砂」より大きく「岩」より小さいものを言う。或いは、容易に移動するものを「石」、移動しないものを「岩」とする、と記載の場合もあります。しかし、これらの説明では、それぞれの境界が全く曖昧です。
したがって、本書の記述では混乱を避けて「石」や「岩」を表わす時には、常に「石や岩」と記述して、それらに「大きい」「小さい」と付け加えて表現している事が多くあります。
でも、この「大きい」「小さい」の表現も問題が多いのです。何に対して、どの程度「大きい」のか「小さい」のかが明確ではないのです。学術的には、「石」を「礫」と記述して、「礫」の長い方と短い方の長さの数値を記載して表わしている事があります。それでも著者は、「石や岩」、また「大きい」「小さい」と記述することにしました。敢えて、数値的表現を避けて相対的比較による表現方法を選択しています。
これには訳があります。まず、上流中流に数多くある石や岩のそれぞれの大きさを実際に計測するのはほとんど不可能です。数が多過ぎるだけでなく、全ての「石や岩」が計測可能な状態にあるわけではありません。つまり、石や岩は、地面や川底の表面だけでなくその下にもあり、その一部だけが埋まっている事も多くあります。さらには、それらは増水があれば移動してしまう可能性も少なくないのです。
そして、最大の理由は、「石や岩」の大きさを数値的に表現することに拘っていたならば、「土砂の流下と堆積」に関わる規則性を見出す事は出来なかったからです。上流中流の各所に極めて多くある様々な「石や岩」の大きさを、相対的で数値が無い曖昧な表現のまま認識することによって、「土砂の流下と堆積」の実際が理解出来るようになりました。
ですから、著者は、石や岩の大きさを明瞭に表す必要がある時には、それらを「軽自動車」「自動販売機」「一抱え」「人の頭」「握りこぶし」程の大きさ等と記述しています。そして、それ以外の時には、「大きな石や岩」「小さな石や岩」と記述することにしました。
これらの事情と似通った考え方によって、河川上流の問題解決を図っている先生方もいらっしゃいます。例を挙げると、砂防堰堤の問題を実験的に理解する方法がWEB上でも公開されています。それ等の画像では、実際の上流の流れの替わりに傾斜を持った小規模な樋を設置しています。そして、石や岩を模した小さな石と、木材を模した小さな木片を最上流部に置いて、そこに大量の水を流し込みます。小さな石と木片は樋をいっきに流れ下り、下部に設置した砂防堰堤の模型に至ります。研究ではこれらの過程とその結果を明らかにして実際の砂防堰堤の建設に役立てているようです。
この実験では、石や岩或いは木材の大きさが実際よりずっと小さくても、現実の土石流とほぼ同じ現象が生じると考えているから、研究が成り立っているのです。本書の場合では、それぞれの場所ごとにある石や岩の大きさが異なっていても、それぞれの場所ごとに生じている様々な現象は、上流中流を通じてほとんど共通した現象であると考えています。
「数学」のように抽象的概念を使用する学問と異なり、自然を扱う学問の場合では、ほとんどの事物の境界は曖昧なままである事が多いのではないでしょうか。しかし、様々な事柄の境界が曖昧な状態であっても、人間は多くの事柄を問題なく分別して理解して来たのであり、現在もそうしていると考えています。
本書「なぜ、上流の水の流れは透明なのか」の場合でもそれらの事情は同じです。
「土砂の流下と堆積」に関わる概念に数値的表現が無く曖昧なままであっても、著者の個人的疑問は問題なく解明できました。また、それらの規則性も明らかになり、それに伴って現在の河川工事が抱える困難の原因も明確に示すことが出来ました。著者は、本書の記述では概念の厳密さよりも、課題の解決を優先したと言えます。
著者の願い
本書では、石や岩の多い河川上流中流の土砂の流下と堆積の規則性を明らかにすると共に、それら自然の規則性による土砂堆積が自然状態のままで治水的機能を持っている事を説明しています。そして、人工的構築物である砂防堰堤やコンクリート護岸や、貯水式ダムとその放流や、取水堰堤が、それら自然の治水的機能を破壊して、上流中流のみならず海岸にまでその影響を及ぼしている事も明らかにしています。それらの影響は治水的効果を無効にするだけでなく、多くの生物の生息環境をも悪化させるものです。
つまり、本書の記述は、現在、河川の上流中流(地形的区分です)で行われている工事のほとんどは、河川や海岸の治水的状況を悪化させる、そして、生物にとっての自然環境も悪化させるだけの全く誤った工事であることを明らかにした記述です。一日も早くそれら間違えた工事を変えなければならない事も本書は主張しています。
本書の記述には、難しい数学も無ければ実験室で確かめなければならない事柄もありません。すべて身近にある河川や各地の河川で生じている事ばかりです。
しかし、本書で説明している規則性の幾つかは年月が経過しなければ確認出来ないような事柄でもあるので、過去の状況と現在の状況を比べる必要があります。普段見慣れている或いは時折出掛ける河川の普通の景色を良く観察してほしいのです。出来るならば、記憶している過去の光景と現在の光景とを比較して頂きたいと考えています。
そして、未来の変化も観察して頂きたいのです。例えば、その河川に規模が大きな増水が発生すれば河川の光景の変化は直ちに明らかになります。その後、何年かに亘って継続的に観察を行えば、その河川の状況をより良く理解出来るはずです。そして、それらの状況が明らかになれば、それらに対する対応方法も自ずから明らかになるのではないでしょうか。
私は、本書を、河川工事の関係者だけでなく、より多くの皆さんに読んで頂けることを望んでいます。河川上流中流で現在行われている工事方法は、地域住民や関係者だけの問題では無く、平野が少なく河川が多い日本国に居住する全ての国民の問題であり、これから未来へ向けての重大な課題でもあります。
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